できごと、思っていること

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五輪に無関心

2024-08-19

パリオリンピックが閉幕しました。
私自身はネット番組での配信視聴が中心でしたが充分に楽しめましたし、選手の皆さんのパフォーマンスに感動もしました。
柔道の誤審や、開幕式での政治的メッセージ等についての問題視、ブレイキンや BMX を見ていると「スポーツは遊びの延長なんだ」という思い、また日本がたくさんの金メダルを獲得した等、いろんなことに思いが及びます。
というような話を昨日、友人達と私も含めて5人でしたところ、5人の内3人は今回の大会について「まったく見ていないし、関心もない、結果も知らない」と言われました。
驚きました。

私だってスポーツ全般に普段から特に強い関心があるわけではないけれど、サッカーのW杯やオリンピックともなれば、気になるし、その世界で能力を極めたアスリート達の戦いは素晴らしいことを知っているし、頑張っている日本人を応援したくなるプチ的なナショナリズムも刺激されるし、誰もが普通に気軽に楽しめるイベントだと思っていました。
オリンピックに無関心な3人の友人達五輪知らん人の言い分はこうです。
「昔はそれなりに観ていた」「いや、元々、興味なかった」
「周囲の誰も話題にしない」「メダルが~とか言うのは頭の悪い奴だけ」
「国歌とか国旗掲揚が気持ち悪い」
「変な種目が増えていて付いていけない」
「夜更かししてまでテレビは見ない」
「他にやることがたくさん・時間がもったいない」
このような五輪知らん人達の言い分のすべてに共感はしませんが、理解できることも多くあります。
私が「誰もが普通に気軽に楽しめる」と思っていたのは間違っていたようです。

ある事柄について関心・興味がない、ということに理由を見つけるのは不毛な気がします。ただ、興味がないだけなのですから。
しかし、以前は関心・興味があったのに現在はなくなってしまった、という場合には理由や原因があるのではないでしょうか。
誰も口にしませんでしたが、私は「年齢」のせいではないかと思いました。
年をとったから興味が失せた、というのが、中年男(初老男?)達が五輪知らん人になった原因ではないかということです。
私自身もいろんなことへの興味や関心が薄れていることを実感します。さみしいことです。

昔読んだ時代小説の中で、落ちてくる葉っぱを真っ二つに切ることができる剣の達人がいて、その達人が老人になって、今でも切れる自信はあるが切ろうとも思わなくなった、切ることに面倒くささを感じてしまって、自分自身の「老い」を思い知る、という場面がありました。
「老い」の正体は、体力の衰えでなく気力の減退であり、いろんなことに「面倒くささ」を感じた時から人は老い始める、という主張です。
いろんなことへの関心・興味が薄れること、つまり「老い」ること、それ自体は悪いことではないでしょう。
「悟り」や「達観」の境地に近づいたとも言えます。
しかし、私は剣の達人ではないので、そう簡単に悟ったりできるとは思えません。
いろんなことへの関心・興味を保ちつつ、好奇心を忘れずに、もう少しジタバタしながら、「老い」に抗っていくのが素敵かなという気がします。

みたいなことを言った私に五輪知らん人達は返してきました。
「興味の対象が変わっただけ。老い、ではなく成長だ」
「意見はわかった。でも、オリンピックはドーデモイイ」
…、だと思った。