できごと、思っていること

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教師にとっての冥王星

2006-09-15

小学生の頃に、太陽に近い順番に惑星を覚えた。「水金地火木土天海冥」だ。
最後の冥王星だけは軌道が傾いていて、何年か後には海王星よりも太陽に近い位置に来ることを知って、早くその時期にならないかなぁと胸をときめかせた。
その時期は確かに来て、そしていつのまにか元通り、冥王星は太陽から一番遠い惑星になった筈だけれども、そんなことには何の興味も抱かない普通の大人になってしまっていた。
で、先月のIAU(国際天文連合)の決定で、冥王星は太陽の惑星ではなくなったらしい。冥王星は惑星でなく「矮惑星(わいわくせい)」ということになったが、この呼び方(考え方)も今回、新たに登場したとのことだ。

教科書に記載されている事実がそうでなくなった事態は教育の現場に混乱をもたらすのでは、なんてコメントを耳にしたが、そんなたいそうなこととも思えない。 むしろ、生徒に真実を伝えるために、IAUのことや、1992年以降続々と冥王星と同規模の星が発見されていることや、今回の決定の経緯を調べた学校教師が日本中にたくさんいたのではないかと思う。
たんなる想像でしかないけれども、もしも本当にそうなら、とても素敵なことだ。
今回の決定は、科学的発見とは縁遠いただの手続き的な決め事に過ぎないけれども、教科書に書かれてあることだってそれが真実でないことはたくさん存在することの証左の一つとはなった。

科学を科学たらしめていることの一つに、「反証可能性の有無」がある。
実験や観察によって、反証できる可能性があるかどうかが、それが科学かどうかの決定的な違いだというのだ。
「神様が宇宙を創造した」という意見には反論は無理だが(どんな反論にも言い訳を永遠にできる)、「光の伝達速度は一定である」には反論の可能性があるわけで、科学とはいつの時代も一つの仮説に過ぎない、というスタンスでいることはとても重要な、「思考停止」に陥らないために必要なことだと思う。
ニュートンだって、アインシュタインだって、間違っていたのだから、ぼくらが間違っていないわけがないのだ。
教科書も学校教師も間違っているのは当然のことで、何にもまして重要なことは、先人の構築してきた仮説に敬意を払い過去の仮説を学びつつも、それらが間違っているかも知れないという謙虚さや疑いの心を持っていることだろう。

「1+1=2は理解りましたが、何故、1+1=2なのですか?」
6歳のエジソンの質問に答えることができなかったばかりか、それを理由に教育を放棄したダメ教師ならば、今回の冥王星の件にも、「そう決まったのだから、そう覚えなさい」としか言わないのだろう。
金八先生も泣き虫ラガーマン先生も必要な方々ではあるけれど、歴史の面白さや、数学の楽しみ方や、科学することの大切さを伝えてくれる先生こそが、本当にカッコイイのではないか。
今回の冥王星の件で、世の中にカッコイイ先生が増えてくれていたらいいな、などと思っている自分は、テストや宿題から解放されて何十年も経っているからこその気楽な立場にあるからかもしれない。