できごと、思っていること

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どこまで言い換える

2006-03-10

学生の頃は「三省堂」という文字を目にするだけで頭が痛くなった経験があるほどの英語嫌いだったのですが、社会に出て今の仕事に携わるようになると、ある意味で仕方なくカタカナ言葉に体が慣らされてしまった感があります。
気付くと、自分自身がカタカナ言葉の毒を周囲にばら撒く病原菌と化したかのようでもあり反省もするのですが、一度身に付いた(たぶん、多くの人には意味不明な)言葉を判り易く言い換えることなど、相当に強く意識していないとなかなかできるものでもありません。

現在ほどオフィス内にデジタル機器が浸透していなかった頃に、欧米産のIT技術に関する用語をすべて日本語に置き換えようという試みがいくつもあったそうですが、それらの試みの多くは失敗しました。
「鍵盤(キーボード)」「金物(ハードウェア)」「卓上(デスクトップ)」等は何とか使えそうですが、「綴じ情報(ファイル)」「言語変換機(ワープロ)」「陰極線管(CRT)」よりは元の英語の方がずっとスッキリとしているし、実はそれらの言葉が生まれた欧米でさえも新しい概念や新しく生まれた発明品に対しては、新語(もしくは合成語)が作られるか、従来の単語の意味をふくらませて対応するしかないのですから、文明の進歩とともにわけのわからない言葉が次々に発生してしまうことは仕方ないことのように思えます。

考えてみると、新しいカタカナ言葉というものは、必ずそれを最初に使う人がいるはずです。
何故、その人は最初にそのカタカナ言葉を使ったのでしょうか?
「外国で新たに発明された製品を表す言葉だった」
「外国産の概念を表す言葉で、日本語や日本文化にはそれを表す言葉が存在しなかった」
「外国産の製品/概念であり、カタカナ表記のままの方が何となく通りが良かった」
「相応する日本語を見つけだすのが困難/もしくはその手間が大変だった」
「一般用語としては浸透していないけれども、専門職業の中では既に以前からカタカナ言葉のまま充分に通用している言葉であり、それが時代の要請によって一般社会でも使われるようになった」
いろんな理由が考えられます。
中には、こんなのもあるのかもしれません。
「相手をケムに巻くためには取りあえずカタカナのままが都合が良かった」

前々回のコラムで例に出された「ジェネリック医療品」や「インフォームドコンセント」などは、日本語に置き換える努力を怠ったか、あるいはケムに巻くつもりで使われたとしか思えません。そうでなければ、国語の苦手な方々が使い始めて、それをバラまいてしまった結果なのでしょう。
これらは積極的に日本語に置き換える努力がなされて然るべきです。
ところが「リーダーシップ」や「マナー」を無理に日本語表記にすべきだとは思えません。

英語が敵国語として禁止されていた時代に、野球では「良し(ストライク)」「それまで(三振)」「安全(セーフ)」「無為(アウト)」等の言葉が使われていたそうです。
そんな時代は二度とごめんだと思います。
色んな文化を容易に取り込むことのできる日本語/日本文化の鷹揚さ、もしかするとイイカゲンさこそが「良い加減」なのかもしれません。